銀座木村家は、明治維新後、西洋の食べ物であったパンに日本独自の製法を加え、庶民に広めました。
以来140年以上に渡り、銀座で伝統の味を守り続けています。今では日本の食文化の一つとなったパンの発展に、今後も貢献してゆきたいと考えております。
木村安兵衛(写真左)と次男英三郎(写真右)が芝・日陰町に文英堂(木村家の前身)を創業。
火災により店舗焼失したため、芝・日陰町より(現在の新橋駅近辺)京橋区尾張町。
(現在のGinza Place付近)に移り、屋号を「木村家」と改め営業再開。
銀座4丁目(現在の銀座店の向かい側)に木村家の店舗完成。
酒種あんぱん誕生
イーストがなかった当時のパンは、ホップで作られていたが、食感は固く日本人の口には合わなかった。そこで、英三郎は日本人に合うパンの研究をした末、酒種酵母を作り出す事に成功し、酒種あんぱんを発明した。しっとりとした生地にあんこの入ったあんぱんは、瞬く間に有名になり大好評となる。新しく出来た銀座煉瓦街であんぱん作りに熱中していた木村親子は、以前より親交のある、山岡鉄舟に試食をお願いしたところ、西洋から入ってきたパンとは違う、酒種を使い、その生地であんを包み焼き上げるという技術が彼の心をとらえた。
山岡鉄舟は木村親子の成長が嬉しく、この年「木村家」の看板を書いて賜っている。現在の銀座木村家入口に掲げられている※看板である。(※残念ながら、本物は関東大震災で焼失しております)
明治天皇にあんぱん献上
明治天皇が水戸藩下屋敷(現在の向島)を行幸される折、巷で評判の酒種あんぱんを献上してはどうかと侍従山岡鉄舟よりお薦めの言葉を頂戴し、四月四日、奈良の吉野山より取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けを埋め込み焼き上げた、季節感たっぷりのあんぱんが明治天皇に献上された。
ことのほか、皇后陛下のお口にあい、両陛下より「引き続きおさめるように」とのお言葉を賜った。
パン宣伝第一号
鹿鳴館時代を反映して銀座に「広目屋」という楽隊を率いる後の「チンドン屋」がお目見えする。木村家が宣伝のためにいち早く採用し、巷間の人気を呼んで木村家の名は一躍して津々浦々まで響き渡った。さらに明治20年、広目屋の様子が歌舞伎の中嶋座正月興行にとりあげられ、当時人気絶頂の初代市川猿之助、中村時蔵、中村寿三郎らの名演技に東都の人気を集め大盛況、おまけにその主演場面のフィナーレを描いた目のさめるような錦絵が売り出され、評判をとった。
木村家三代目儀四郎、ジャムパンを新発売、大好評となる。
日露両国の関係が緊迫して衝突が必至な状況の中、日本陸軍はパン屋、菓子屋を集めて軍指定の大規模なビスケット工場の建設を計画した。
その理由は日清戦争後の義和団事件で日本兵は飯を食わなければならないが火を使って飯を炊くからその火を目がけて敵弾が降りそそぎ、多くの犠牲者を出した。
しかし欧米の兵士たちはビスケットと缶詰めだから火は使わない。日本軍は各国から近代戦争の基礎を知らないと嘲笑されたのが原因である。
日本軍の食糧政策の大転換により、真剣に戦時食糧の研究を始め、その実験にあたったのが儀四郎らが作った東洋製菓であった。この東洋製菓は日本の近代的ビスケット工業の始祖となった。そして研究の末、乾パンが完成した。むろんこの乾パンが日露戦争の食糧となったのは言うまでもない。
明治33年、儀四郎はこの東洋製菓で実験を重ねていた時、ビスケットの生地にジャムをはさんで焼く作業を見ているうちに、これをあんの代わりに酒種生地にしてみたらと思いつき、銀座の店で売り出したところ大変な評判となった。ジャムパンの完成である。
電気ガマ第一号の設備を開始(電気運行ガマ)
動物パン「かめパン」が大ヒット
「むしケーキ」の開発に成功
中国の飲茶の中で、馬来糕(マーラカオ)は日本人の口に合うと確信し、研究開発を進めた結果、硬くなりにくい、口溶けのいい、これまでの蒸しパン、カステラ、饅頭類と異なった”ひとあじ“風味を加え、ヒット商品となる。
その後、現在に至る